アドラー心理学をご存知ですか?「ほめない」「叱らない」で有名なアドラー心理学の育児と教育法は、雑誌でも話題になることが多いですね。
一方、「偏食」の子への対応として、「少しでも食べられたらほめる」ことは推奨されていますが、これはアドラー心理学からすると良いことなの?と不思議に思いました。
私は栄養学を大学で学びましたが、アドラー心理学については全く学んだことがありませんでした。偏食の子への対応として、心理学の面から考えると間違いはなかったのかが気になっています。
そこで、まだまだ勉強中ですが、アドラー心理学を踏まえながら、どう偏食の子に対応したら良いのか考えてみました。
子どもの偏食でついイライラしがちなママへ、イライラしない子育て法でもあるアドラー心理学の考え方は参考になると思います。
結論から言うと
私がアドラーに関する本を読んで導き出した「偏食」の対応はこうです。
食べらない子どもの感覚に興味関心を持ち、子どもの声を評価せずに聞いて、そのまま受け入れる
まず、アドラーを知らない方もいると思うので、アドラーの基本を解説します。最後に、なぜこんな偏食対応を導き出したかを説明します。アドラーを知っている方は読み飛ばしてください。
アドラー心理学の基本「子どもをほめない、叱らない」
私がアドラーの本を読んでまず驚いたのは、冒頭でも言いましたが、次のような言葉です。
子どもを「ほめない」「叱らない」
ほめもせず、叱りもしない、、、それって、全てをスルーせよということ???と私は混乱しました。しかも、「子どもはほめて育つ」というのはよく言われている話で、偏食の息子にだって「ピーマン食べられたの!!すごいね〜」なんて言ってしまいます。
もしこれが本当だったら、私の育児は間違ってた!?もし間違っていたとすれば、急いで軌道修正しなくてはいけません。
ところで、なぜ子どもを「ほめる」「叱る」がいけないのでしょう。まず分かりやすい「叱る」がなぜいけないかを見てみましょう。
「叱る」のがいけない理由
アドラーによると次のような理由です。
罰の効果は一定的であり、罰する人がいなければ不適切な行動をするから。
例えば、息子がゲームを長時間やっていて、時間を守らないとします。我が家のあるあるです。そこで、時間を守らなかった罰として、おやつ抜きの罰を与えるとします。その時は効果があるかもしれません。
ところが、私が仕事の日は誰も制限する人がいないので、ゲームの時間を守らないばかりか、おやつをこっそり食べるでしょう。罰は一時的にしか効果がないということです。
ちなみに、罰を与えるのではなく、つい叱ってしまうこともありますね。
罰を与えたり叱ったりすると、子どもは「自分には能力がない」と劣等感を感じるようになるそう。また、エスカレートすると「家庭には自分の居場所がない」「周りの人々は私の仲間ではない」「敵である」と感じるようになるそうです。
さらに悪いことに、子どもが大人と自分どちらが正しいかはっきりさせようという権力争いを挑んできた時、もし大人が勝ってしまうと、面と向かって反抗しなくなり「非行」に走るという復讐を始めるようになるとのこと。
ゲーム時間くらいの問題で「非行」に走るか?と思われるかもしれませんが、ゲームに限らず偏食のことでも「なぜ食べないのか」と叱られたり、叱られる場面が生活上多ければ多いほど劣等感を感じるようになるということなのでしょう。
では、好ましくない行為を目の前にして、親としてどう対応したら良いのでしょう。放っておく方が良いのでしょうか?
じゃあ、ほめて伸ばす作戦はどうですか?
そう、そこで出てくるのが「ほめる」育児。子どもが好ましい行為をした時に精一杯「ほめる」。そうすると、ほめられるのが嬉しくて、段々好ましい行為ばかりするようになると親は期待します。
しかし、アドラーは、「ほめる」ことも否定します。なぜなのでしょうか。今度は「ほめる」のがなぜいけないのか見てみましょう。
「ほめる」のがいけない理由
アドラーによると、次のような理由です。
1,「ほめる」行為は上下関係の上で成り立つから
2,ほめられている間は良いが、失敗した時には自分は能力がない、と思うようになるから
ほめることで上下関係が作られる
一つ目の理由「ほめる行為は上下関係の上で成り立つから」について、分かりやすい例があります。
例えばママが朝ごはんを作り終えた時、旦那さんにこう言われるとします。
夫:今日も朝早くご飯を作れたんだね、偉かったね〜
普通の感覚をお持ちの方なら、こう言われるとムッとするはずです。言い方もちょっと嘘っぽい。
朝ごはんを作るのは「当たり前」だと思われてもムッとしますが、「すごかったね〜」とほめられてもムッとする。複雑な心境です。
なぜほめられるたのにムッとしたのかというと、「ほめる」というのは「能力が上の人が能力が下の人にすること」だからです。簡単に言えば、上司と部下の関係。ママと旦那さんは上司と部下ではないので、ほめらるとムッとするのです。
では、これと同じことを親子でしても良いのでしょうか。親子は明らかに上下関係があるので良いのでは?と思われる方もいるでしょう。しかし、アドラーは相手が子どもであっても同じだと言います。
ほめると失敗した時に自己否定するように
二つ目の理由「失敗した時には自分に能力がないと思うから」についてはこんな例が考えられます。
例えば、どうしてもトマトが嫌いな子がいたとしましょう。
子:トマトが食べられたよ!
親:すごいすごい!トマトが食べられたんだ!すごいね〜(ほめる)
子どもはとても嬉しいでしょう。いつも食事を残されて怒っていたママが、自分がトマトを食べたことでほめてくれました。次も頑張るぞ!と思うかもしれません。偏食の栄養指導でも、栄養士さんは「嫌いな野菜を少しでも食べられたらほめてあげてくださいね」と言います。何も問題がなさそうです。
ところが、頑張ったけどナスは食べられませんでした。するとママは全くほめてくれません。子どもはガックリと肩を落とします。やっぱり自分はダメなんだ、ナスもトマトも食べられるボクじゃないとママは認めてくれないんだ、、、。
叱ったわけではありません。ただほめなかっただけです。もしかしたら、こうフォローするかもしれません。
親:いやいや、頑張ったよね。きっとそのうち食べられるようになるよ!また頑張ろうね!
フォローできたママは良いママのように感じられます。
しかし、今後子どもは「ママにほめられたいから」食べる努力をするようになるでしょう。
それが結局健康につながるんだったら、それも良いのでは?
そう言う方は多いと思います。実際、それで食べられるものが増えてきた、食べられなかったトマトがいつの間にか食べられるようになった、そんな子が出てくるかもしれません。
しかし、ゲーム時間の例と同じように、自分への劣等感を感じる要因になっているとすればどうでしょうか。ほめる=「ほめられない時の自己否定」につながるとしたら、これは健康が云々いう以前に、健全な親子関係が崩れる危機的大問題です。
また、アドラーは「ほめる」ことが競争社会を生むとも言います。トマトが食べられる人はえらい、食べられない人はえらくない。なんでも食べられる子はえらい、そうでない子はえらくない。そういう競争社会です。
本来、親が子どもに色々食べて欲しい、偏食が治って欲しいと願うのは、健康になって欲しいからのはず。それが、本人にとっては、誰かよりもえらくなりたい、優位に立ちたい、そういうことで食べるようになるのです。
私はアドラーの心理学の本を読み、この「ほめてはいけない」の部分に一番衝撃を受けました。アドラーは食育については述べていませんが、偏食の子どもへの接し方についても、問題提起をしてくれたように思います。
食べるって、なんだろう。「ママからほめられるから」食べるのは正常な食べ方なのだろうか。昔はもっと生きるか死ぬかの瀬戸際で食べていたのではないか。健康に生きるために自ら進んで食べていたのでは。今の食育は正しいのだろうか、と考えさえられたのです。
どんな対応をすれば良いの?
じゃあどんな対応をすれば良いんですかね?
アドラーはこのように提案します。
尊敬する。
尊敬とは、ありのままのその人を尊重すること。
その人がその人であることに価値を置くこと。
先程のママと旦那さんの例で考えてみましょう。「いつも早起きして朝ごはん作って偉いね〜」これを、「ほめる」のではなく「尊敬、尊重」の言葉に変えてみます。
「早起きが辛い日も早起きをして、毎日家族の朝ご飯を用意しくれているんだね。(尊敬)」
こう言われると、ママさんは嬉しいですよね。自分は家族の一員として受け入れられている感じがします。分かってくれてるなと思うと、家庭に自分の居場所があると感じられます。また家族の為に早起きして朝ごはんを作るぞ!と気力が湧いてきます。
これを偏食の子への対応に応用すると、どうなるでしょう。偏食の子にどう尊敬の念を抱けば良いのでしょうか。
私が考えるアドラー的偏食の対応
アドラーは偏食の対応について特に何も言っていないので、ここからは私なりの考えになります。私は、偏食の子どもを「尊重」してあげることを意識しています。
偏食に尊敬なんて、、、と思われる方は、尊敬を「尊重」という言葉に変えてみてください。食べられないことを「尊重」する。子どもだからと上から目線で見ず、同じ立場の一人の人間として見る。食べられないのは成長過程だと見てあげます。
ほめるところで見た上下関係の図のように、同じ平面にいるという前提で話します。すると、ほめながら聞くのではなく、子どもに「興味関心」を持ちながら聞くことができます。
良い話も悪い話も、「興味関心」を持って聞く!これがポイント
子「トマト食べられたよ!」
親「食べられなかったトマトを頑張って食べてみたんだね。どんな味がした?(興味関心)」
これもほめてるっぽくないですか?と思われるかもしれません。でも、大きな違いは「そこに上下関係がない」ということです。友達と話す時の感覚を思い出すと、上下関係なく話せるかもしれません。
また、小さな子が感じるトマトの味は、大人である自分が感じる味とは違うと思ってください。この子はトマトの味をどう感じたのか?興味関心を寄せると話し方も変わってきます。
次は食べられなかったバージョンです。
子「なすは嫌い!食べない!」
親「なすは嫌いなんだね。どういうところが嫌いなの?(興味関心)」
親はなんで食べないの!?と怒ってしまいがちです。でも、子どもは大人が感じられない些細な味やにおい、食感を感じています。センサーは敏感です。錆び付いてしまった大人のセンサーでは分からない感覚です。
ですから、あくまでもおだやかに、どんなところが嫌いなのか興味関心を寄せて聞いてください。
子「グネグネしてるし、見た目が紫で気持ち悪い!」
親「そうなんだ、そんな感じなんだね。においはどう感じるの?(興味関心)」
ここまでしつこく聞かなくても良いかもしれません。でも私は本当に興味があるので、聞いてしまうかも。
最後に一番大事なことは、「評価をしない」ということです。子どもが話したことについて、親の判断(良いか悪いかの評価)をすると、「ほめる」「しかる」と同じ結末になります。ですから、最後はサラッと「子どもってそう感じるんだね〜」で終わりにします。
常に興味関心を持って話していくと、子どもは良いことも悪いこともちゃんと親に話してくれるでしょう。自分の評価を入れずに、ひたすら受け入れる。難しいけれど、アドラーを学んで実践しようと思った私なりの対応方です。
まだまだ会得するのは難しいアドラー心理学。
子どもと過ごしながら、私も少しずつ学んでいけたらと思います。